私の一押し漫画である。

先日、いつも行く温泉施設でスマホで漫画が無料で読める
サービスがあり、その漫画の中に私の人生を変えた漫画があった。
全巻持っているのだが、もう何十年も読んでいないので
懐かしく読み返したみたのである。
その漫画のタイトルは「祝福王」である。作者はたかもちげん氏
であるのだが、すでに亡くなられている。
ドラマ化された「こちら本池上署」は有名であろうかと。
祝福王は言わずと知れた宗教漫画なのだが、その内容は実に興味深く
宗教の本質を表しているのだが、今なら十分に理解出来る内容も
当時はそこまで理解する事が出来なかったのだが、それでも
実にインパクトの強い漫画であり、私の人生に多大な影響を
与えた作品であろうかと。

ここからはネタバレになるのだが、この漫画の凄さを説明するのには
欠かせないものなのでご注意願いたい。

内容的には宗教漫画らしく、主人公が自らの強い力に悩みつつ
多くの宗教やら人物らに触発され成長を遂げて自らの運命やら
役割に目覚めていく物語であり、実に宗教の本質を突いている。
私は事ある事に宗教は登山に例えていて、宗教は頂きまでの
登り口に過ぎず、登り口が違えば風景は違っているのは当たり前だが
頂上までたどり着けば全ての登山道は等しく繋がっているのと
同じく、神も一つである事が理解出来る訳である。
密教でも同じく、全ての神は大日如来の化身であるとされ同義なのである。
物語では一つ一つの宗教の教祖が主人公に触れて、その真実に目覚めて行く
姿が素晴らしく描かれている。

また、漫画の最後では、桑折に多くの人達が集まり、煉獄が消滅し
「自らを祝福せよ」と言う最後のシーンは、まさに神の本質に触れるものであり
日本人が気づき目覚めねばならない事なのである。
インドでは人の体はマンディールつまりは寺院であり、その中に御わす神こそが
魂なのである。つまりは、人の魂こそが絶対神の分霊体なのである。
密教的に言えばそれこそが、同行二人であり、大日如来である空海和尚との
二人三脚なのである。
つまりは、神は外にいるのではなく、すでに自分の内にあるのあり
いつも側で見守っている存在なのである。だからこそそれに気づき
祝福せよと言う事なのである。自らを愛し感謝せよと言う事なのである。

神の本質をとらえたまさに神漫画なのである。
そして、一人でも多くの日本人が目覚める事を祈るばかりである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

怒りのコントロールに関して②。

①続きである。

怒りの本質を少し書いたのだが、怒りと言うエネルギーは
どのようなものなのであり、どうすれば怒りをコントロールする
事が出来のかを書いてみるのだが、①では戦う、逃げる、話し合う、
消失と端的に4つの方法を書いてみたのだが、②では消失のプロセスを
解説するとしようかと。

怒りのエネルギーの方向性は、外的に向かうものと内的に
向かうものがあり、もう一つ消失と言うケースがあると書いた。
では、その消失と言うケースはどのようなケースであるのかと。
簡単に言えば内観である。
瞑想し、怒りの根源を見つめるのである。そして、その原因や
何故に自分はその怒りのエネルギーに捕らわれているのかを
理解する事で怒りのエネルギーを消失させる事が出来るのである。
因果や原因を取り除く事が出来るならエネルギーそのもが
なくなってしまうと言う具合なのだが、かなりの難易度なので
よくよく内観が進まなければ実践する事は難しいのだが
出来ないものではないのである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

怒りのコントロールに関して①。

本日から何回かに分けて怒りのコントロール。
つまりはアンガーコントロールの事に関して少し書いて見たいと思う。

初めにご注意である。
このブログは和海の私見によってのみ構成された日記である。
なので、読むのは勝手なのだが意見を求めるものでない事は
言って置く事にする。コメントは解放しているので自由にして頂ければ
いいのであるが、暴言などは即バンするのでご了承下さい。
と言っても宣伝もしていない私の日記にたどり着くにはかなりの難関
なのであり、また、ある種の霊的なフィルターも施しているので
だ取り付くには、縁が必要なのであり、その大半が私の前世の弟子やら
同じ村の人達なので、何とも懐かしく感じる事であろうかと。
最近はめっきりと読者も減ったので、このキーワードで来られる方は
幸いでるとだけは言って置くので最後まで読まれた方がいいので
なかろうかと。まあ、それも自由なので楽しんで頂ければ幸いである。

私は日曜の午後に何ともな番組を見ていた。
そこで放送していたのが、アンガーコントロールなる方法であり
どうやら人間の怒りのコントロールに主眼を置く方法のようである。
そして、聞いていると何とも拙い説明であり、まったくもって核心が
得られない内容であった。そこで私なりに密教行者らしく書いてみると
言う事としたのである。
怒りとは、喜怒哀楽と呼ばれる人の感情のいち形態である。
よろこび、いかり、かなしみ、たのしみである。
番組では怒りは防衛本能と言う事なのだが、本当にそうであるのかと。
そいて、動物は怒りに触れた場合は戦うか逃げるかの二択であるとの
事であるのだが、確かにその面はあるだろう。

しかし、人は動物とは違い知性や理性があるのである。
つまりは、戦う、逃げるの他に話し合う、自己研鑽にて解決する方法が
あるのだが、彼らはその事には一切触れていないのである。
人も確かに動物なのだが、牛や豚とはあまりにもかけ離れている。
一括りにする事の方が無理があるのではなかろうかと。
確かに、昨今のウクライナ情勢を見れば、話し合いでは解決しない事も
あるのだが、国と言う単位や法律やらを駆使する事で話し合いで
解決しているのも事実なのである。
そして、怒りとは本当に防衛本能なのだろうかと。
まずは、少し疑ってみる事とする。人はどんな時に怒るのかと。
自分や自分の愛する他者が傷つけらた時ではなかろうかと。
また、想い通りに行かなかった時や、命の危険に晒された時や
不利益を被った時ではなかろうかと。
怒りの方向は他者へ向かうのか自らの拙さに向かうのである。
つまりは、怒りと言うエネルギーは外向きか内向きに放射される
と言う事である。エネルギーであるなら、そのエネルギーを
消化してしまい消失させる事も出来るのではなかろうかと。
少し長くなったので、②に続くとする。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

悲しみの先には。

今年の3月21日はお彼岸の祝日であり、我が師である
空海和尚の入滅日である。
しかしながら、本来はお祭りが行われる素晴らしき日が
我が人生の中でも最大に等しい悲しい出来事が起こったのである。
そして、それは運命によって起こる事が決まっているとしか
言えない絶妙なタイミングで起こり、決して避けて通る事が
出来ないのである。

絶望の縁に立たされ、涙が枯れる程悲しみを感受しても尚
悲しみは尽きぬものである。
しかしながら、その悲しみは喜怒哀楽と言う一つの感情であり
喜びや怒りを受け入れているのに、悲しみだけを受け入れずに
避けて通る事など出来ない事なのである。
喜怒哀楽と言う感情は全てが同義であり、どれか一つを
受け入れないなどとは行かないのである。
悲しみを受け入れて見ると、そこには感謝が待っている。
そして、感謝の先には愛だけが残るのである。

そこに至りさえすればあれだけ溢れていた涙は自然と止まるのである。
だからこそ、悲しみを存分に味わい尽くすのである。
そして、彼岸に至ればその先には涅槃が待っているのである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

抱き参らせる。

ヤフーのニュースにゲッターズ飯田さんの本の紹介での記事が
出ていた。内容は「運気を下げる」からすぐ止めるべき行動で
あったのだが、その文面を読むと何ともな感想となった。
確かに内容はその通りなのだが、何とも釈然としないのである。
小さな事でイライラするから大きな幸せを失うと。
そして、その解消法はと言うと「どうでも良い」と思う事で
受け流す事、そして、短気は損気であると言う事としてある。

それで本当に解決するのかである。
そこで、すこし興味が出たので考察してみる事とした。
まず、喜怒哀楽。人には様々な感情があり、そのすべては同列である。
つまりは、喜びだけを受け入れて怒りは受け入れないと言う訳には
いかないのである。喜怒哀楽その全てを受け入れていく事こそが
人としての修行なのである。そして、人としての生活の中で
何故、人は怒りや喜びや悲しむのだろうと考えねばならず
その感情の波に支配されずにコントロールしていかなくては
ならないのである。
怒りの感情が悪い訳ではなく、その怒りに飲み込まれてしまい
理性を失ってしまうのがまずいだけのである。
また、怒るにも怒るだけの理由があり、その理由を理解して
自らの心を認めてあげる必要があるのである。

オカルト界で有名な「日月神示」を書いた岡本天明氏のセリフなのだが
「抱き参らせる」と言う言葉があるのですが、まさに真理であるようで
抱きしめるが如くに己の感情を抱き参らせてしまうのであると。
さすれば、どのような感情であろうとも、愛の力にて包み込んでしまうと
いう事のようである。
人には様々な感情があり、その全てを受け入れてしまえばいいのだと
私は思います、まあ、コントールが出来なくなるのはいけませんが
善だの悪だの、綺麗だの汚いだの光だ闇だと二元論で忌避するのではなく
善には善の意味があり、悪には悪の意味があると。
自分がどうしてそう思うのかが大切なのだと思います。

そして、参らせる、その感情や相手に参ったと閑念させるのか
観念させるのか、参る、つまりはその道を行くとかけているのだと。
つまりは、愛を持って自らの感情に素直に向かえば良いと
言う事であり、それこそが真理であると言う事なのではなかろうかと。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

「下品な人は、幸運に恵まれない」のだろうかと①。

またも、ゲッターズ飯田さんの記事からなのだが、ネットのニュースで
度々出てくるので仕方ないのであるが、基本的には好きな方なので
私なりの解釈をしていこうかと。
彼は自らの著書の中からこのように語っているようで、その事から
現在ビジネスに取り上げられ記事となっているようである。
彼曰く、運の招待は縁だそうである。
確かにその通りの側面はあるのであるが、私は縁とはカルマなのではないかと
思っている。つまりは縁が繋がるか繋がらないかも含めて
全てはその人個人のカルマから来るものであると。
なので、良縁だろうが悪縁だろうが、カルマによって引寄さられるか
定められているのかと言う具合ではなかろうかと。

私は前世の記憶が数々あるのだが、現在の家族はほぼ前世の焼き直しの
側面が強く、時代が変われでも何度も同じメンバーを選択しているようである。
そして、その解消すべき課題のカルマも同じようであり、それもまた輪廻の
なさる技なのかと思うのだが、どうであろうかと。
そうすると、受動だろうが能動だろうかが同じ事なのではなかろうかと。
そして、彼の言う品が無い人は幸運には恵まれないのもほぼその通り
なのだが、品が悪くとも憎まれっ子世に憚るとのことわざもある通りに
悪運に恵まれると言う事もあるのかと思う。
しかしながら、それでも品格が悪いとさらなる悪しきカルマを生む事も
事実なのであり、その処理は今生でなくとも必ず解消しなければならない
のも事実なのである。

おそらく彼の言う所は、悪しきカルマを産まずに良きカルマを重ねると
カルマの循環が起こり、よりよいカルマが帰って来ると言う具合なのでは
なかろうかと。私の行っている技の一つにカルマ促進の法と言うのがある。
これは悪しきカルマも良きカルマも等しくその本人に速度を付けて返すと
言うものだが、面白いくらいに速攻でカルマが返って行く。
この事からも、下品で悪しきカルマをばら撒けば、悪しきカルマとなって
やがては自分でその悪しきカルマを処理しなければならなくなると
言う事であり、品が良い行いをしていると良いカルマが返って来ると
言う具合ではなかろかと。そして、以前の記事でも紹介したが
「ツイてる。ツイてる。」自らの言霊と使って良きカルマを引き寄せている。
つまりはカルマを促進しているのではなかろうかと。
②につづく。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

人生に無駄など無いのである。

あるタレントが28歳の誕生日を控えての発言であるのだが
彼女は26歳から28歳までの2年間を無駄にしたそうで
仕事の面で無駄にしたと思っているそうである。
まあ、某漫画との恋愛に現を抜かしていた自らを恥じたの
だろうが、それすらも無駄では無いのである。

人生に無駄など無いのである。無駄だと思ったとしても
後から考えればそれがいい経験となっているのである。
なので、引きこもりのニートであっても、その時間は無駄など
ではなく、壊れた心の治療中であったと認識すれば
病気の療養には必要であったと言う事ではなかろうかと。
人はあらゆる経験を重ねていて、魂を成長させているのである。
もし、時間に無駄や実りがあったとしても、どうとらえるのかが
問題であるのである。
例えば、農家が野菜や果物を栽培していて、収穫の前日に
台風に襲われて、収穫が出来ずに作物が駄目になったとする。
それは果たして無駄となったのかと。
確かに農協で商品として出荷するには傷ものは値が付かない
だろうかと、しかし、ジュースにしたり、加工品にしたりと
作物に無駄はなく、また端正込めて作った努力も無駄では
ないのである。

要は商品価値がないからと、従来の考え方で勝手に無駄だと
決めつける事が問題なのであり、その作物の活かし方を
考える事こそが、肝なのではなかろうかと。
また、傷ものとして、安くネットで販売するなり、商品を
知ってもらうための宣伝費と捉えればいいのであり
加工品などを工夫すれば、商品としての価値は上がるのである。
同じく人の人生もその味方を変化させる事が出来るなら
十分に経験値として生きてくるのである。

人生に無駄なものはなく、人は何度でも生まれ変わり
課題をクリアー出来るまで輪廻の中で繰り返すのである。
そして、山を登るかの如くに一歩一歩着実に進んでいれば
やがて頂上へとたどり着く事が出来るのである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

死の恐怖を和らげる4つの方法だそうだ③終。

最後に和海の見解を書いて見るとする。
死に恐怖感を持つのは人の本能なれど、それは人間の本質を
知らぬ者なのである。まあ、それでも多くの者が人の本質を
知らないのも事実なので、その辺りを少し書いて置こうかと。

まあ、このブログでクレームを入れてくる方は居ないと
思うのだが、あくまでも私の私見でありそれが真実やら事実だと
証明する事は無いのであしからずである。
このブログは私の日記なのであり文句を言われる筋合いは
初めから無いのであり、自由に書いているのである。

まず、人は何度も転生している。
これは事実である。それこそ、何千何万のレベルである。
多くの人生を経験して魂にその時の記憶を保存しているのである。
しかし、それほどに転生しているにも関わらず、愛の獲得は
成されずにいて、多くの方は現在もその転生の最中であろうかと。
そして、転生の目的であり、人生の目的こそが愛の獲得なのである。
愛はエネルギーであり、神の根源であり愛こそが神そのものである。
なので、多くの人が認識している愛は本来の愛ではなく
疑似的な愛なのである。親子愛、夫婦愛、友人愛、隣人愛などは
本来の神なる愛では無く、類似的な愛と言う事なのである。
しかしながら、そこに感謝があればこそ真なる愛へと近づくのである。
愛の話はかなり難しいので次の機会にでも話すとしよう。
少し話がそれたので元に戻すとしよう。

人は何度も転生している。私は多くの前世の記憶があるので
もはや、死すらも超越していると言えるのだが
そんな大層な話ではなく、誰だって何度も死んで生まれてを
これだけ繰り返していれば死への恐怖など無くなると言うものである。
また、今生における自分の役割や仕事に関してもある程度は
理解しているので、その仕事が終わるまでは死にたくとも
死ねる事はないのである。そんな感じである。
なので、多くの人達がもし自分の前世の記憶が残っていたなら
きっと同じ感覚になるに違いないのである。
バーチャルゲームでの死に沸きに等しいと思うのである。
これはゲーム内で一度死んで新たに沸きなおす行為。
それ位に転生しているのである。

インドでは体はマンディール(寺院)であり、その中に
安置されているのが魂である神様の分霊体と言うのが
教えの中にあるのである。なので、全ての人の体の中には
神様の分霊体が入っているのである。
そして、その分霊体は何度も器を変えて転生していて
人生の様々な経験を通して愛と言う究極的なエネルギーを
獲得するまで輪廻は続くと言う具合であろうかと。
なので、死と言う概念は肉体の死であり魂の死ではないのである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

死の恐怖を和らげる4つの方法だそうだ②。

初めに修行者たるもの死は日常である。
もちろん。山でなくとも、日常生活の上でも死は
常に自分の傍らに存在しているのである。
病気、交通事故、地震や火災、台風や竜巻、果ては殺人
など。普通に生きていても確実に訪れるのは
死であり、人生は生きているだけで死へと向かっている。

そうして、日常でも死を受け入れて生活してみると
世界は違ったものに映るのである。
つまりは、一日一日を有効に自分の心の赴くままに
生きる事が出来るのである。
また、人は過去も未来を生きているのでは無く
今を生きているのであり、今しか生きる時間は無いのである。
つまりは、今のこの時間を大切にまた有効に生きる事こそが
重要なのである。時間は有限なのである。
しかし、与えられた時間をどう使うのも自由なのである。
ここが人生の実に面白い所なのである。

修行者たるもの、山に入る時には自らは死んだものと
考えるのが筋であり、生にしがみつくのではなく
淡々と物事を見定めると言う姿勢が必要なのである。
初めから生きていなければ死を意識する必要すらもなく
生すらも意識する必要がないのである。
つまりは、無の領域こそが修行の本懐であり山と言う
神様と一体となり、無心で修行を成す事こそが本懐と
言う事であろうかと。
そうすると、不思議と危険の認識や先の予測が頭の中で
イメージする事が出来るようになり、修行を安全に完了する
事が出来るのである。それが山と一体となり神に全てを
委ねる帰依全托の精神となるのである。

まあ、ここまでは修行者の心得みたいなものであるが
次には、もう少し深く書いて見るとする。
③に続く。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

死の恐怖を和らげる4つの方法だそうだ①。

ネットの記事に面白いものがあったので紹介するとする。
それは、死の恐怖を和らげる4つの方法として近年の研究から
心理学者が解説しているのだが、どうであろうかと。

まず、死の恐怖は恐怖体験を重ねればいいと言う訳ではなく
初めの内はいいのだが、経験を重ねるとかえって大きくなる
傾向にあるようである。記事ではスカイダイビングの例を
上げて解説しているようで、確かに初心者よりもベテランの方が
死の恐怖は和らぐがベテランになれば成程に恐怖は小さくは
ならずに重なっていくようである。
まあ、確かに経験が高くなればなるほどに死を意識するのは
修行者も同じであり、だからこそ、無理はしないようになり
独特な感みたいなものが働くのも同じであろうかと。

そして、面白いのは宗教的な事で信じると死への恐怖が
和らぐと思いきや逆に死への恐怖は強くなる傾向にあるようである。
確かに宗教的な概念は死を連想させるのも事実であるのだが
逆に死を克服する力と信念を与えてくれるのも事実である。
結論から行くと以下の4つとなるようである。

1.次世代を助ける。
2.死の話題を避けない。
3.臨死体験をする。
4.人生の意味を見出す。

との4つ方法だそうである。
1.は自分の経験を誰かに伝えようとうする教育行動のようで
2.は死の話題を避ければ避けるほどに頭の中で増大する
ようである。
3.は実際には難しのでバーチャル的な体験をする
といいようである。
4.は説明では、自分の価値観を確立し、人生という旅の地図を
描けるようにする。とある。
何とも、抽象的だが、目的意識をもって自分の人生の意味を
ひたすら考えてみるのがいいのではないだろうかと。

とまあ、ここまでは心理学者と言う学者の意見であったが
次には和海的な意見を書いて見るとしようかと。
②に続く。

ありがとうございます。
感謝。
和海。