初めに修行者たるもの死は日常である。
もちろん。山でなくとも、日常生活の上でも死は
常に自分の傍らに存在しているのである。
病気、交通事故、地震や火災、台風や竜巻、果ては殺人
など。普通に生きていても確実に訪れるのは
死であり、人生は生きているだけで死へと向かっている。
そうして、日常でも死を受け入れて生活してみると
世界は違ったものに映るのである。
つまりは、一日一日を有効に自分の心の赴くままに
生きる事が出来るのである。
また、人は過去も未来を生きているのでは無く
今を生きているのであり、今しか生きる時間は無いのである。
つまりは、今のこの時間を大切にまた有効に生きる事こそが
重要なのである。時間は有限なのである。
しかし、与えられた時間をどう使うのも自由なのである。
ここが人生の実に面白い所なのである。
修行者たるもの、山に入る時には自らは死んだものと
考えるのが筋であり、生にしがみつくのではなく
淡々と物事を見定めると言う姿勢が必要なのである。
初めから生きていなければ死を意識する必要すらもなく
生すらも意識する必要がないのである。
つまりは、無の領域こそが修行の本懐であり山と言う
神様と一体となり、無心で修行を成す事こそが本懐と
言う事であろうかと。
そうすると、不思議と危険の認識や先の予測が頭の中で
イメージする事が出来るようになり、修行を安全に完了する
事が出来るのである。それが山と一体となり神に全てを
委ねる帰依全托の精神となるのである。
まあ、ここまでは修行者の心得みたいなものであるが
次には、もう少し深く書いて見るとする。
③に続く。
ありがとうございます。
感謝。
和海。