早いもので大晦日である。

今年は一段と時が経つのが早かったようだ。
名古屋までは行けたのだが、それ以来はさっぱりで
西へ行く事が出来なかった。
しかしながら、その間にじっくりと内観の時間で
あったようで、思わぬ課題をクリアー出来たようだ。
ある種の自覚が得られ。実にしっくりきた。

そして、その自覚と共に、見たくなかった現実とも
向き合う事となる。これもある意味試練であったか。
悲しくもあり、しかしながら前世の記憶がかなり蘇り
何度も同じ事を繰り返している自分を見る事が出来たようだ。
そして、私が得られた経験はブログをご覧の皆様にも
おそらく当てはまると思われるので書いておこうと思う。
ささやかながら、皆様へのプレゼントである。

「自分の魂はいつの世でも変わらない。」である。

国籍や時代背景や、女性であり男性であっても
前世の魂に違いは無いと言う事である。
似ていると言うよりも、主義主張や考え方やら
方法論なども、ほぼ変わりは無いようだ。
しかし、魂も着実に経験を積んで成長はしているので
やり方がうまくなったり、早くなったりと
ある種の変化や成長はしている。
肌の色や目の色は違えども、魂が同じであれば
中身は決して変わらないのである。

これは、私が前世の記憶が無い人物の自覚を得るのに
悟った事でもあるのです。
どうも私の魂の記憶には、強烈な鍵がかかっていて
決して見る事が出来ない。
おそらく自分自身が鍵をかけているので
条件が満たされない限り確実に開かない。
しかし、それでも自覚しないといけないようで
どうすれば自覚出来るのかを色々と考えていました。
私の直近の前世では、体質や食べ物の好みなども
同じようなので、日本人ではあるが体は完全にインド人体質である。
しかし、あまりに先の前世では、それは当てはまらない。
同じ魂を持つのなら、どう考えどう行動するのだろうかと
思い巡らすと、何と見えてきたのです。

私の魂の素養は前世であっても変わらないと言う事に。
それに伴い、考え方や主義主張や物事を見る方向性は
常に同じ方向を向いている事に気づきます。
そして、今歩く自らの道すらも、パンくずを落としているかの
如くに、確実に神の方向へと導かれている事に気づきます。
おそらく私のブログなどをお読みの読者の方なら
かなりの能力者の方が多いでしょうから。
私と同じように、未来の自分の魂の事を思い描いている方も
多いはずでしょう。よくあるではないですが。
今世でも未来の自分に手紙を書くなんて。
それの、前世版とお考え下さい。
もっとも、私の場合は信仰していた神様やら眷属が同じなので
その眷属に命じている場合があるかも知れません。
過去の修行を紐解くとそんな出会いが数度あったように思います。

何とも話はかなりそれてしまいましたが
来年はかなり面白い年になるでしょう。
準備は出来ているようです。夢でも多くの方が神様から
祝福を受けていて、プラサード(神饌)を頂いているようですから。

良い年をお過ごし下さい。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

観音とは。

本日は、ブログをご覧の皆様に、私が得られた事をゆるめで
紹介する事にしました。しかしながら、全量では無いので
後はご自分の考察にでも生かして頂ければと思います。

得られた事とは。「音」に関してです。
先日、成田山へ月参りへと出かけて来ました。
丁度、紅葉も見頃を迎えた時でした。
いつもながらの法要なのですが、やはりいつもながら
一筋縄では神様は降りては来ません。
そして、法要中に聞こえてくる音を良く聞いていると
顔を見なくとも、どの方が法要をしているのか判る程に
法要に参加している事に気がつきます。
まあ、音楽家もそうでしょうけど。
音を奏でるには、その方の癖が出るのでしょう。
これはある意味、しゃべり方や声のトーンやらも
同じく、その方独特のものがあるのです。
そして、歩く音やら何かを触る、鳴らす、等で出る音も
同様である事に気がつきます。

そして、ふと。神様はどんな音を聞いているのだろうと
思った瞬間に悟ってしまったようです。
人は意識無意識に関わらず、様々な音を出している事に。
まあ、心臓は常に鼓動し血管を流れる血液にも
微細ながら音は出ている事でしょう。
そして、その音にはその人の癖やら気持ちも
入るのではと思ったのです。
確かに、自分が真言を唱える時でも、密教の奥義である
「心口意」を行い念を込めて唱えます。
その音の波動を神様が聞かれているのだろうか。
だからこそ、観世音菩薩と言うのではないかと。

サンスクリットでは「アヴァローキテーシュヴァラ」であり
avalokita(観)+ svara(音)とある。つまりは音を見るのである。
もう一つの説はava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)
であるようだが、あまねく見るとは、音の広がりを示す事の
ようではないだろうか。まあ、私からすれば両方とも同じ意味に
取れるようである。
そして、それは菩薩業の最終工程であるようで
菩薩という存在になるには、遍く音を見る事が課題のようである。

さてさて。菩薩業を歩んでいる読者の皆様。
音が見れるようになる為には、音が何者であるのか?
ここが重要な鍵となるのです。
ぜひとも観音菩薩になれるよう精進下さい。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

人は誰からでも学べる。

ネットのニュースを見ていると
「9歳、宇宙のしくみを語る」と言うユーチューブの動画には
なかなかに感心させられた。
まあ、動画をアップしている主は、どうやらニューエイジ関連の
宇宙的概念を持っている方のようであり
日本でも有名なバシャールやらがアップされていた。
そして、動画の少年は何処かの団体に属していて
自分の意見ではなく、紙に書かれた原稿を読まされているとしても
語られるその内容は、かなり秀逸であり、多くの学びを
与えてくれる事だろう。

私はこの動画を一見し、感じた事と言えば、過去生に置いて
かつて自分の師匠であった方から語られた事に話の内容が
良く似ていると思った。
宇宙や宇宙人の存在をアリに例えて話すその思考にである。
アリが知るのは自分の周りの世界だけである。
しかし、その一歩外側には広大な世界が広がっている。
アリはその世界を知る由も無いだろう。
人も同じではないかと。
地球の周囲意外では、すでに理解の範疇を超えている。

確かに最近の子供の霊性は驚く程高い場合がある。
宇宙的と言うのか、中に宿す魂の出所が違うのだろう。
もし、彼が9歳にしてその思考を持つのであれば
おそらく確実に地球由来ではないか、または行者レベルの
魂を宿しているうようだ。将来が楽しみであるのだが
最後になるほどと思わせる台詞がありある意味納得した。
それは「愛」について語られていない点である。
人の存在理由である「愛」に思考が至らない点が
やはり、9歳なのであろうか。
いずれにしてもこれからが楽しみな子供であるだろう。

私は常々思っている。
人は誰からでも、何からでも学べると。
9歳の子供ですらもこの思考である。まさに侮る事は出来ない。
そして、小さき命であるアリからもである。
どう感じ。どう思い。どう思考するかが人の醍醐味と言えよう。
そして、愛を体現出来ればあがりなのである。

一応リンクを貼って置きます。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=0elS0Y5x_vU

そして、余談ではあるが、この方の動画にパラマハンサ・ヨガナンダの
映画がこの秋にアメリカで公開される。すでに公開されているようだが
何とも見たい映画であると感じた訳である。
何ともタイミングが良い事か、これも神の采配なのだろう。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

臨死体験②。

先日の記事の続きである。
作家の立花氏の番組であったが、NHKで放送していた「臨死体験」と
言う事で、私なりの考証を書いて見るとする。
まあ、正確な事は自らが死ねば理解出来るのだから、その時にでも
この記事を思い出して頂ければ良いだろうか。
なので、全て私の私見であるのでご注意下さい。
そう、信じるか信じないかは貴方次第です。

まず始めに、人は肉体であるのか霊魂であるのか。
と言う議論があるだろう。肉体は見る事や触れるが出来るが
霊魂は見えず触れずであり、あるかどうかすらも認識出来ない。
おのずと人は目に見えるものを信じる癖があるので
肉体、つまりは脳や心臓に意思が宿ると思っている。
確かに記憶を司るのは脳であり、心臓も記憶すると言われている。
どちらも人間の活動には無くてはならない臓器である。
しかし、それでは前世を思い出す事など出来やしない。
脳の作り出した擬似記憶であるのか。
しかしそれでは、世界各地で起こっている前世の記憶を
持つと言う現象は説明出来ないであろうか。
アメリカの子供のケースでは、確か大学の教授か心理学者が検証し
昔の資料を調べて本当にあったケースとして認識されている。
ならば、肉体意外に記憶を有する事が
出来る何かが存在すると言う事ではないだろうか。

まあ、それが魂の記憶であるのだが。
パソコンに置き換えると説明がかなり楽であろうか。
パソコンはソフトとハードの二種類で動かす。
動力は電気であり、モニター、本体、キーボード、マウスで動かす。
実に、これが人で例える肉体である。
しかし、それだけでは動かない。ソフトやOSと言ったプログラムの
集積が必要で、プログラムはマシン言語で書かれている。
磁気記憶媒体や光記憶媒体に保存されているプログラムを
本体にインストールしなければ動かないのである。
これが人で言うところの魂であるだろう。
プログラムも見えないし、触る事も出来ない存在である。
しかし、その電子文字の集積がなければ動かす事が出来ないのである。

肉体における魂も同じ存在であろうか。
魂というプログラムが肉体と言うハードウェアー(器)にインストールされ
人として動く事が出来るのである。
私の捉える感覚としては、肉体の何処と言うよりも体全体にと
言う感覚であり、丁度、肉体と言う器に水をいっぱいに注がれ
蓋をされていると言った感覚であろうか。
その中の水そのものが魂と言う感覚である。
心臓や脳と言う部位だけでなく、体全体にという感じであろうか。

次に続く。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

導かれし者達へ。

明日より、和海ブログの読者の方が四国遍路修行に入るようなので
本日は、そんな縁を感じて導かれし者達へメッセージを残しておく。
まず、このブログへとやってこられる方もある意味縁と言えよう。
それは、このブログが何処にも宣伝やら登録やらをしていない
非常に閉鎖されたブログであると言う事である。
特定のキーワードでしか、たどり着く事が出来ない訳である。
しかし、その特定のキーワードが重要であり、求める者には与えられる
と言う構造になっているようである。

また、書いている本人が変わり者ゆえ、好き嫌いもあるだろうか。
まあ、それは一見さんはお断りではないが、縁は魂の引き合い
みたいな感があるので、前世等に私と関わりのあった方でないと
難しいのかも知れない。私の方は数々の前世でも、本質的には
あまり変わってないようなので、言い回しやら、言葉の癖などの
フレーズはあまり変わっていないようではある。
おそらくそんなフレーズに反応が出る方こそが縁なのだと思われる。

そして、本質的には他力本願ではなく、常に自力本願である。
まあ、神様にお任せの所は帰依全托なのだが、人生のプレーヤーは
常に自分であるとの理念は変わらないと言えよう。
何故なら、自由意志がなければ人生が面白くないではないか。
何でも自分の思い通りになったら、人生が相当につまらないものに
なってしまうだろう。それでは成長も出来ず愛も理解出来ない。
だからこそ、人は人生で悩み、怒り、もがき、苦しみ。
また、楽しみ、努力し、愛する訳である。
全ては神なる愛を理解するために。

人は今しか生きられない。
即ち、過去や未来に生きている訳ではなく常に今を生きている。
今を重ねると過去になり、今に種を蒔くからこそ未来に育つ訳である。
だからこそ、今歩いている己の道をただ只管に歩く事こそが最良であり
その道こそが、縁により導きを受けた道と言えよう。
例え、その道が茨の道であろうが、平坦な道であろうが、山を登る事を
あきらめない限り、やがては山の頂が見えてこよう。

しかし、忘れてはならない事が一つある。
貴方は常に一人ではないのである。
「同行二人」常に貴方を見守る存在が傍らに居る事を。
苦しい時であればあるこそ、貴方と共に歩く存在に
心を傾ける必要があるだろう。
目には見えないながらも、縁によりて強く結ばれた存在が
貴方を守護しているのだから。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

縁。

縁(えにし)とは、縁がないとか、ご縁があると言う使い方をする。
つまりは、関係が出来る何かの切欠の事であり、血縁や因縁など
原因によって結果が生じる流れのようなものである。
多くの方が勘違いをするのだが、縁とは、基本自らが求める事が
必要であり、その行動に伴い事象の流れが起こる事である。
確かに、自らが求めずとも引き寄せられてくる事もあるのだが
多くが自らの行動により引き寄せるものであるだろう。
因果の法則が適用されているようである。

つまりは、見たり聞いたり感じたりした事にインスピレーションが
刺激され、自ら行動する事で縁を結ぶ事となるのである。
思っていただけでは、普通、繋がる事は無い。
これはある意味電話と似ている。こちらがどんなに連絡しても
相手が電話に出なければ会話にならないからである。
しかし、自らの興味がある人の電話番号を知ったら
かけてみたいと思うのが人情であるだろう。
多少、失礼があったとしても行動し縁を結ぶ。
それだけ熱心であり行動力があると言う事であろうか。
まあ、確かにいきなり訪れてあれやこれやと時間を費やすのも
相手に取っては大変であり、時には失礼にあたる訳だが
こと霊性修行に置いては、確かにそれ位の失礼は承知の上の
出来事であろうか。その道のマスターなら皆承知であるだろう。

それだけ熱心に神を求める心を起こすのは大変であり
また、大切な要素である事を知っているのである。
なので、会いたくない場合は断る事もあり、全ては相手の力量に
合わせて判断するのである。特に昔の禅宗はその辺りが厳しい。
すぐに会ってはくれるが、教えは学べない。
また、なかなか会ってもくれない場合も多いと言う。
もし、帰依全拓を実践する事が出来ていれば、あまり考える必要は
ないだろう。何故なら、事の起こりは全て神の采配により
起こるものであると知っているからであり、どんな出会いやご縁で
あろうと、全ては神の御技であるのだからである。

また、自分が教えた相手が失礼にも話を通さずに会いに行ったからと
あきれる事も必要はありません。何故なら、その方の力量を図らずして
教えてしまった自分にも非はあるが、失礼にして会いに行かれた方の
力量が解り良かったではないだろうか。
また、行動を起こすと言う事はある意味賞賛される事である。
なので、自分に話を通さずとも引かれたしまった訳であり
それも縁と言わざるおえない。話をした事で縁を結んでしまった
訳であり、相手の不手際を責めるよりも自らが縁を結んだ事に
神なる思惑があると思うべきであるだろう。
話をさせられたと見るといいだろうか。
霊性の情報を与えてあげると言う、知施と言う訳である。

とまあ、神なる思惑には奥が深く、なかなか判断がつかない事も
多いのだが、良縁や悪縁すらも受け入れる事が肝要である。
その大半は自らの行いの果実であり、神なる祝福である。
「良薬は口に苦し」であり、悪縁もまた、楽しからずや。
全ては学びであり、愛を理解するために存在しているのだから。

縁はどんな縁でも、自らを育てる糧となる。
泥の中から綺麗な蓮の花が開くように。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

この世の存在とは。

いつもながら、楽しく拝見しているブログ記事で
なかなかに面白い記事が投降されていた。
それは「この世の存在」についてである。何とも哲学的課題であり
とても触発されたので、本日はこの記事に関して書いてみようと思う。

まず、簡単に私の結論を言えば。
自分の指で額の真ん中を「パチン」叩いて見ると良いだろう。
所謂、でこぴんである。どんな感想であるだろうか。
普通に弾けば、痛いであろうか。それが実在である。
頭でっかちになり、難しい講釈を鵜呑みにして、解りもしない事を
あれこれと考えるよりも生むが安であるだろうか。
存在していなければ痛くはないだろう。

インドの教えには様々な教えや考え哲学があり、およそ我々が
考えうる事など全て考え尽くされている。
その教えの中では、この世は「マーヤ」つまりは幻想であると
語られている。夢幻であるので、存在し得ない事になるだろう。
そして、シャンカラと言う聖者により、不二一元論つまりは
アドヴァイタヴァーダの教えにより、宇宙の根本原理「ブラフマン」
のみが唯一存在する世界であると説いている。
同じ事を言っているので、ブログの作者の言っている事に
間違いはないであるが、そんな難しい事を言っていても
日本人として生活している上では、まったく意味を成さない。

おそらくインド人に同じ事を言っても「ああそうだね。」と
言われ、「だから何」と言われてしまうだろう。
彼らに取っては、この世はマーヤなのは当たり前の事であり
さして、取り合うような事ではない。
それよりも、日々の暮らしの中で、より霊性を向上させる事に
主眼に置き、実践する事のみに集中している。
何故なら、彼らは神や師や祖先が、如何に霊性の向上を
望んでいるのかを知っているからである。

確かに多くの日本人はこの事実を知らない。
しかし、有名な般若心経のお経の中にも登場する
「色即是空、空即是色」と言う言葉の中にもある通り、確実に
日本にも素晴らしい教えがインドより伝わって来ている。

また、織田信長が舞った「敦盛」の中にも
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」と
ある通り、かなり有名な言葉として歴史に残っている。

まあ、何とするかは己しだいなのだが、今現在を一生懸命に
生きれば良く、霊性を向上させる為に努力すれば良いと言う事だろう
と思う。我々には今しかないのだから。
そして、存在の概念も空の概念も不二一元論も、山の頂に到達しさえ
すれば、見晴らしも実に良く、全てを理解する事だろう。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

ダイヤを磨く方法とは。

4月8日はお花祭り。お釈迦様の誕生日であった。
そこで、尊きお釈迦様にちなみ。菩薩行に関して書いてみました。

ダイヤモンド。
金剛石とも言うが、人は心の中に金剛石を有している。
だからこそ、そのダイヤを削り磨き輝くまで研磨する事が
人生の修行なのである。
では、硬いダイヤを磨く為には何が必要なのか?
通常ダイヤモンドは同じ硬度のダイヤで磨かなくては削る事は出来ない。
善や悪と呼ばれるものの意味。これがその答えと言えるだろうか。

当然にして、その善なる心を磨く為には、多くの悪が必要となる。
そうして、お互いに切磋琢磨する事で磨かれ輝きを放つ。
当然にして、輝きを放つようになれば、もう磨きは必要が無くなり。
自然と悪が離れていく。これは危険と捉えてもいいだろうか。
ヨガの修行者は最終的に野獣蠢く森に入る。
しかし、そのヨガ行者を襲い傷つけるような野獣はいない。
これは、光と闇の関係と良く似ている。
光が増せば闇は退く。どんな暗闇でも太陽の光が差込めば明るくなり
朝がやってくるものだ。
しかしながら、明るすぎる光には常に影が出来るものでもある。
そのように、光と闇はつきつ離れつの関係なのである。

人も同じく、この世には善意や悪意が存在する。
インドの概念では、現在はカリユガ期に辺りこの世の70%は悪と言う。
だからこそ、非常に金剛石が磨かれ輝きやすい時代であると言う。
何せ、回りの大半は悪であるのだから。まさに磨かれ放題である。
当然にして、この社会では理不尽な事が多いだろう。
義はなされず。善意は廃れ。だからこそ人々はいがみ合い。争う。
しかして、それも世の定め。カルマの如く回転している。

所詮は、度々の詰まりまで行かなければ逆転などしやしない。
やがて、その時が訪れる事になるのだろう。
であるなら、我々は何とする。
我々に出来る事は、常に霊性の向上に努め、心の中にあると言う
金剛石を磨き上げる事こそが、この世の課題であるのだろう。
カリユガ期の世で貴方がもし、輝きを放つ事が出来るのなら
悪は貴方の元から去ってゆくだろう。
何故なら、光と闇は相容れない存在であるのだらか。
そして、闇すらも超越し心に受け入れる事が出来たなら。
貴方は、尊き菩薩となって。暗闇に灯明を照らし
人々を導く存在となるだろう。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

運命考察②。

12日も何事も無く終了と相成るようである。
しかしながら、急きょブログを書き上げて眠りについた辺りで
茨城沖の地震があったようで、下総もそこそこ揺れていた。
私は夢心地で寝ぼけていたので、起こされはしたのだが
朝起きると夢のような感じさえしていた。
まあ、何事も無いのに越したことはないので筑波ゆきにも
意味があったのかと思う事にする。

二回目の本日は運命に関して霊性の向上的な観点から書いて見たいと思う。
先日は一般的な方法を書いて行ったのだが、今回は全くそのアプローチが
異なる。ですので、あまり参考にはならないと思われるが
こんな方法もあるのだと言う認識にはなるであろうか。
霊性の観点から運命を見ると、大きな大河のようであると思われる。
山から流れ海に注ぐ、川の流れは一定でよどみなく流れている。
船を浮かべれば、やがては海に流れつくと言った感じか。
流れに逆らうには、船にモータが必要で人力で漕いでも
やがては流れに負けて押し戻される事になる。そんな認識か。
しかし、船に櫂があるなら、自由に船の方向は変える事が出来るし
最悪の場合は岸に船を寄せて川から上がる事が出来るのも
船の特徴だろうか。

人に例えるなら、生まれてから死ぬまでの人の運命には
逆らう事は出来ないが、その方向性や岸に上がり流れを止める事は出来ると
言う事であろうか。しかし、方向をコントロールするにも岩礁やら
浅瀬があり、船の操縦には注意力や技術が必要であるのと同じく
ただ流れに身を任せていればいいと言う訳ではないようだ。
そうして、上手くコントロールし無事に海に辿り着けばそれが寿命であり
船が座礁や沈没せずに進むためには何が必要であるのかと
言う事なのであろうか。まさに船の操縦法のような事なのであろうか。
これぞ、インドの聖典「バカバッド・ギータ」なのであろうかと。
話が長くなりそうなので、要点を上げて見る事にする。

まずは、川の流れを理解する事である。
確実に人は死ぬ訳であり、時間の長短には関係が無い。
しかし、肉体の死が人の死では無いと言う事であり魂は不滅なのである。
つまりは、広義の上では「人は死なない」と言う事である。

次に運命は変えられるが、流れは変わらない。その方向性が変わるだけである。
つまりは、死を変える事は出来ないが、時期は変えられると言う事である。
それは癌でも、その治療法で延命率が変わると言う事と同じである。

流れには逆らわずに受け入れる事。受け入れる事で用意に流れを支配出来る。
つまりは、方向性を自らがコントロールする事が出来るようになる。

人生を楽しむ事。流れに身を任しながら全身で運命を満喫する事である。
これはかなり重要で、満喫し満足し感謝するなら大いなる存在が動く事がある。
人は充実や充足感に満たされると、悔いが残らず満足できる。
満足できればいつ死んでも悔いがなくなり、逆に死ななくなる傾向にある。
神様に見ていたいと思わせれば勝ちであると言う事か
別の役が与えられ、延命がはかられる事となるようだ。
難しい話をすると、光と闇のエネルギーの違いなんてのもあるのだが
説明が面倒なので次の機会とする。

まあ、要は案外簡単であり難しくもあるのだが
自分の運命を全て受け入れ、満足し感謝し充実した人生を謳歌する事。
この事に尽きるだろうか。もとより、満足していればいつ死んでも悔いは無い。
そこから、死と言う概念すらも関係がなくなる(意識しなくなる)訳であり
生まれた限りにはいつ死んでも可笑しくなく。
毎日を充実した人生を贈れば良いと言う事になる。
確かに死を意識しないと回避出来ない。しかし、まったく意識しなければ
同じように死が遠ざかると言う訳なのである。
インドのヨガ行者「カリアッパ氏」によると
断崖絶壁を歩く時に落ちる事をイメージするからこそ人は落ちてしまうようで
まったくイメージしなければ決して落ちる事はないそうだ。
まさに、ある意味運命の操縦は人が行っていると言う事であろうか。

まさに、意識と無意識の境界に人は立っているようだ。
「中道」とは人の事なのであろう。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

運命考察①。

昨日の続きになります。
本日は視点を変えて運命に関して少々書いてみたいと思います。
皆様はご存じでしょうか。飯島愛さんがテレビの番組で台湾の占い師の元を
訪れた時に言われた事を、彼女は占い師に数年先の未来にはいないと
はっきりと告げられてました。どうもその言葉の表現からは
未来が無い方の場合は黒くなりまったく先が見えないそうです。
良く言う「ブラックアウト」といいます。

そして、占い師の方は涙を流しかわいそうねと言っていました。
テレビ番組の構成上死亡宣告では、あまりにも落ちがないので
芸能界には居ないとか、お茶を濁してましたが、予言をされてしまったようです。
事実、その三年後には死亡してしまう事となります。
まあ、この話には様々な説があるのですが、私が考察するに、占い師が未来の
ビジョンを見た段階では、このままではそのような運命になる事になっていた
と言わざる終えません。しかし、まだ運命が決定している訳ではないのです。
3年間の猶予を与えられていたと言った感じでしょうか。
その間に別の未来を引き寄せる事が出来なかったと言う感じでしょうか。

また、最近起こった、桜塚やっくんの事故ですが、こちらも不幸で有名なブログに
6年前に載っていたそうです。そこまでならいいのですが、その画像のファイル名や
ページのアドレスが桜塚やっくんの死を連想される数字だったようです。
つまりは、こちらも、6年前から運命のカウントダウンに入ったと言う事でしょうか。
私が思うに、このブログの作者は全く意識せずに未来の予言をしている可能性が
あると思っております。本人では無く後ろにそのような能力者がいるのだと
思います。つまりは読み解く事で回避の可能性を与えていると思います。
しかし、未だうまく使いこなせていないのが現状ではないでしょうか。

とまあ、数年前から死の宣告をする意味を考えますと、おそらく回避する可能性を
示唆しているのではないでしょうか。確かに運命は上記の内容を見れば
存在していると解るでしょう。しかし、未来は常に変動していて確定するまでは
どうなるのかは解りません。量子論では「シュレーディンガーの猫」と言う
実験の結果の通り、未来は常に決定していない事が理解出来ます。
ならば、運命も同じ事なのです。いち観測点からは死亡するケースがあっても
別の角度からは死亡しないケースも同時に存在している訳です。
しかしながら、占い師の見たビジョンの傾向が強い場合には、その他のケースに
移行する事はなかなか難しいと言わざる終えません。

ならばどうするのか。この答えが運命を引き寄せる事となるのです。
つまりは、まずは視点を大きく変える事です。
簡単に言えば、生活環境を大きく変える事から始め
今までの行いを全て捨ててしまう事もいいでしょう。
自己破壊と自己再生です。
また、何でも積極的に行動する事も変化を生みやすいと言えます。
それ位の人生の変化を起こさないと、運命など変える事は出来ないでしょう。
四国遍路修行においては、一度死にそして再生すると言う意味があります。
1400キロの道のりをただ只管に歩く行為は、劇的な変化をもたらします。

しかしながら、まずはその運命が正しいのかどうかも重要ですので
ただ占い師に言われたから行動出来る訳ではないでしょう。
人はなかなか、死や危険に関しての危機管理に疎くなっていると思います。
これも平和ボケでしょうか。世界的に安全な日本と言えども常に危険は潜んでいます。
その危険を嗅ぎ分ける能力があれば、大概の事は防げるでしょう。
要は日々の注意力と直感力です。そして、何気無い行動のいかんでは
運命は変わる事もあるのです。
「注意一秒怪我一生」と言われるように、一秒の間でいい場合もあるのですから。
つまりは、運命を受け入れ精一杯努力すれば、結果は二の次となり
案外、運命を味方にする事も出来るのです。

とまあ、ここまでは一般論を書いてみました。
次は私なりの霊性の向上を使った方法を書いてみたいと思います。
続きます。

ありがとうございます。
感謝。
和海。