本日は、ブログをご覧の皆様に、私が得られた事をゆるめで
紹介する事にしました。しかしながら、全量では無いので
後はご自分の考察にでも生かして頂ければと思います。
得られた事とは。「音」に関してです。
先日、成田山へ月参りへと出かけて来ました。
丁度、紅葉も見頃を迎えた時でした。
いつもながらの法要なのですが、やはりいつもながら
一筋縄では神様は降りては来ません。
そして、法要中に聞こえてくる音を良く聞いていると
顔を見なくとも、どの方が法要をしているのか判る程に
法要に参加している事に気がつきます。
まあ、音楽家もそうでしょうけど。
音を奏でるには、その方の癖が出るのでしょう。
これはある意味、しゃべり方や声のトーンやらも
同じく、その方独特のものがあるのです。
そして、歩く音やら何かを触る、鳴らす、等で出る音も
同様である事に気がつきます。
そして、ふと。神様はどんな音を聞いているのだろうと
思った瞬間に悟ってしまったようです。
人は意識無意識に関わらず、様々な音を出している事に。
まあ、心臓は常に鼓動し血管を流れる血液にも
微細ながら音は出ている事でしょう。
そして、その音にはその人の癖やら気持ちも
入るのではと思ったのです。
確かに、自分が真言を唱える時でも、密教の奥義である
「心口意」を行い念を込めて唱えます。
その音の波動を神様が聞かれているのだろうか。
だからこそ、観世音菩薩と言うのではないかと。
サンスクリットでは「アヴァローキテーシュヴァラ」であり
avalokita(観)+ svara(音)とある。つまりは音を見るのである。
もう一つの説はava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)
であるようだが、あまねく見るとは、音の広がりを示す事の
ようではないだろうか。まあ、私からすれば両方とも同じ意味に
取れるようである。
そして、それは菩薩業の最終工程であるようで
菩薩という存在になるには、遍く音を見る事が課題のようである。
さてさて。菩薩業を歩んでいる読者の皆様。
音が見れるようになる為には、音が何者であるのか?
ここが重要な鍵となるのです。
ぜひとも観音菩薩になれるよう精進下さい。
ありがとうございます。
感謝。
和海。