縁。

縁(えにし)とは、縁がないとか、ご縁があると言う使い方をする。
つまりは、関係が出来る何かの切欠の事であり、血縁や因縁など
原因によって結果が生じる流れのようなものである。
多くの方が勘違いをするのだが、縁とは、基本自らが求める事が
必要であり、その行動に伴い事象の流れが起こる事である。
確かに、自らが求めずとも引き寄せられてくる事もあるのだが
多くが自らの行動により引き寄せるものであるだろう。
因果の法則が適用されているようである。

つまりは、見たり聞いたり感じたりした事にインスピレーションが
刺激され、自ら行動する事で縁を結ぶ事となるのである。
思っていただけでは、普通、繋がる事は無い。
これはある意味電話と似ている。こちらがどんなに連絡しても
相手が電話に出なければ会話にならないからである。
しかし、自らの興味がある人の電話番号を知ったら
かけてみたいと思うのが人情であるだろう。
多少、失礼があったとしても行動し縁を結ぶ。
それだけ熱心であり行動力があると言う事であろうか。
まあ、確かにいきなり訪れてあれやこれやと時間を費やすのも
相手に取っては大変であり、時には失礼にあたる訳だが
こと霊性修行に置いては、確かにそれ位の失礼は承知の上の
出来事であろうか。その道のマスターなら皆承知であるだろう。

それだけ熱心に神を求める心を起こすのは大変であり
また、大切な要素である事を知っているのである。
なので、会いたくない場合は断る事もあり、全ては相手の力量に
合わせて判断するのである。特に昔の禅宗はその辺りが厳しい。
すぐに会ってはくれるが、教えは学べない。
また、なかなか会ってもくれない場合も多いと言う。
もし、帰依全拓を実践する事が出来ていれば、あまり考える必要は
ないだろう。何故なら、事の起こりは全て神の采配により
起こるものであると知っているからであり、どんな出会いやご縁で
あろうと、全ては神の御技であるのだからである。

また、自分が教えた相手が失礼にも話を通さずに会いに行ったからと
あきれる事も必要はありません。何故なら、その方の力量を図らずして
教えてしまった自分にも非はあるが、失礼にして会いに行かれた方の
力量が解り良かったではないだろうか。
また、行動を起こすと言う事はある意味賞賛される事である。
なので、自分に話を通さずとも引かれたしまった訳であり
それも縁と言わざるおえない。話をした事で縁を結んでしまった
訳であり、相手の不手際を責めるよりも自らが縁を結んだ事に
神なる思惑があると思うべきであるだろう。
話をさせられたと見るといいだろうか。
霊性の情報を与えてあげると言う、知施と言う訳である。

とまあ、神なる思惑には奥が深く、なかなか判断がつかない事も
多いのだが、良縁や悪縁すらも受け入れる事が肝要である。
その大半は自らの行いの果実であり、神なる祝福である。
「良薬は口に苦し」であり、悪縁もまた、楽しからずや。
全ては学びであり、愛を理解するために存在しているのだから。

縁はどんな縁でも、自らを育てる糧となる。
泥の中から綺麗な蓮の花が開くように。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

縁。」への2件のフィードバック

  1. ありがとうございます。
    あの記事を書くにあたり、その部分(自分の知らないところで知り合い同士が繋がること)は自身の学びとして処理をしたつもりになっていましたが、処理できていない感情が滲み出ていたかもしれません。おっしゃる通り、私にとっては教師としての立場ではこのように受け止めることが課題(学び)ゆえに起こる事だと思います。生徒以外だったらちょっとさみしいだけで気に留めなかっただろうことも、曲がりなりにも教師である私は言うべきか言わざるべきかと悩むこともまた私の課題。
    あの記事で言いたかったのは後半に書いたように「先生側が気にするかどうかではなく、私たち生徒自身の意識の問題」と書いたように、私自身が先生方に対して気をつけている事を自分の生徒さんに(言いづらいからと)教えないのは責任逃れじゃないかと思ったから書きました。
    が、前半部分で私が教師側での生徒の事例を出した事で、うまく伝わっていないと思う反応が続いた(謝られてしまったり・・・)ので、今載せるべき記事ではないと判断して非公開にしました。
    またのんびり向き合ってみます。記事は大変参考になりました。

  2. こんばんは。Yoga Mukthiさん。
    縁とはなかなかに不思議なもので、そこには神なる
    思惑が存在します。人は生きているだけで常に
    様々な縁があるのです。
    特に何かを教える教師の場合には、その影響も
    大きいと言えるでしょう。
    だからこそ、見極めと言葉を選択しなければなりません。
    しかし、それすらも超える領域が存在し
    Yoga Mukthiさんであれば、常にその神なる存在に
    影響を受けていると言えるでしょう。
    であるなら、基本お任せで言いのです。
    因を与えれば果となりどんな形に成長するかは
    その人次第です。まっすぐ伸びる方もいれば
    曲がってしまう方もいるでしょう。
    しかし、きゅうりであれば、真っ直ぐであれ
    曲がっていようと中身と味は同じです。
    要は大きく育てばいいのです。

    我々のような灯明は照らし導くのみです。
    旅人は道に迷う事もあり、また後悔する事も
    あるのです。しかしそれでいいのです。
    「同行二人」であるのなら、それもまた然り。
    そうしてお互いに学べるのならそれもまた然り。

    ありがとうございます。
    感謝。
    和海。

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