二回目は①の続きで少年空海の性格を考察してみるとする。
すこし、期間があいたので、こちらを見ると良いだろう。
空海と言う人物考察①
まず、彼の家は両親ともに名家であった。
生活環境は裕福であり、兄弟も多いが五男というポジションであり
家を継ぐ必要は無く自由に自分の思った事に専念出来る環境であった。
兄や姉がいて、弟としても可愛がられ
また、弟や妹がいて面倒見の良い兄としての側面もあったであろう。
姉の子で、長年連れ添った弟子である「知泉」が亡くなった時の
「達嚫文」にそんな彼のやさしさが込められている。
また、かなりの母思いの性格で、京都の東寺で貫主をしていた時には
その敷地に母方の守り神である石上神社を建てて、別棟に住まわせ。
また、高野山の時には女人禁制の為に、麓の神社に庵を建てて生活の
全般の面倒を見ていた程である。御山に居る時には年老いた母の
為に忙しい中、毎日のように麓まで足を運んでいたと言う
弟子の記録がある。
そうして、多感な少年時代を過ごし、都の大学へと進学する事からも
教育熱心な両親であった事が推察され、母の実家の権力と財力すらも
頼みとする位に、空海少年には期待されていたのだろうと思う。
まあ、それ位に周囲を期待させる程の能力の高さだったのだろうか。
14歳の頃に都に行き、優秀な叔父から様々な教育を3年間受けて
大学の明経科(行政を学ぶ所)に入学したようだ。
しかし、3年間の母方の仏教家系の人達と接する事で、仏教的な
知識や経験が身に付き、また本来、母方の家系が持つ宗教者としての
遺伝子が開花したのだろうか。
おそらく、母親は親戚一同の行動を見ていて、幼き空海少年の中に
宗教者としての才能を感じていたのだと思う。
何故なら、自分の血筋への理解と、血は争えずそこはやはり
空海の母なのである。ある種の霊的才能があったとしても
何ら不思議ではない。実際に遺伝子に置いては親子や兄弟は
同じような能力を持つ事があり、霊性に関しても同じと言える。
であるなら、多くの宗教者を輩出した名門である阿刀氏の
遺伝子がそれを物語っていると言う事である。
少年空海も幼き頃から、様々な事への興味と探究心を持って
大胆に行動する少年であった事だろう。
折角両親が敷いたエリートコースの道すらも、簡単に捨ててしまい
自らが求める道を大胆にも選択する勇気と行動力。
そして、彼は何でも自らでやってみると言う性格なのである。
一人の沙門から授けられた「虚空蔵求聞持法」を熱心に試した事だろう。
そして、両親を説得する為に書いた「三教指帰」と、自らが求める
宗教者としての道を進む為には、反対する両親や兄弟を文章で
説得する姿勢も実に真摯であると言える。
そうして、歴史の表舞台に登場する間に、始めは近畿の山々を
そして、故郷である四国の山々を歩き回り修行したに違いない。
正式な僧となったのは、遣唐使船に乗る少し前の30歳の時と
言われているが、実は空海には「教海」「如空」と名前を
二度程変えている。最終的には「空海」となったのだが
よく言われている、高知県室戸岬の御厨人窟(みくろど)で
悟った時の風景が空と海だったから「空海」と言われているが
それはおそらく違うだろうと思われる。
はじめの名と次の名を足して割れば「空海」であり
奈良の大安寺の首座だった勤操(ごんぞう)に連れられて
和泉国の槇尾山寺で剃髪して沙弥戒を授けられたとある。
何と勤操は秦氏の一族であるようで、後の秦氏との親交は
有名である。私が考察するに、海は「真魚」から来ているの
だろう。大海を自由に泳ぐ魚。そして、それを包み込む
広大な海。そして、空は尊敬する「不空三蔵」から来ている
のだろうと思われる。空海の誕生日が不空の命日と
言われていて、空海本人もそれを知り意識しているようで
あったと言う。真言密教寺院の仏像の配置を見るに
常に不空へのオマージュを感じるのは私だけではないだろう。
不動明王と愛染明王の配置。そして、金剛峰寺と言う名は
『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』
と言うお経の名から付けられたもので、このお経こそが
愛染明王のお経と言う事になるのです。金剛智三蔵の作なのだが
その訳は弟子の不空三蔵であった。
③につづく。
ありがとうございます。
感謝。
和海。