菩薩の域③。

一回目は、菩薩とはどのような存在であるのかを書いた。
二回目は、菩薩の持っている能力である六仙通の力について
書いてみた。
三回目を向え、本日は菩薩の代表格である観音菩薩について
書いて見るとしよう。

観音菩薩と一口に言うが、観音菩薩は六道世界に一人づつ
存在する菩薩であるとされる。
六道世界とは、輪廻の輪の中の六つの世界を指していて
それぞれの世界には観音様が衆生に救いの手を差し伸べると言う。
天道と呼ばれる天界には「如意輪観音」。
人間道と呼ばれる人間界には「准胝観音」天台宗では「不空羂索観音」。
修羅道と呼ばれる修羅界には「十一面観音」。
畜生道と呼ばれる畜生界には「馬頭観音」。
餓鬼道と呼ばれる餓鬼界には「千手観音」。
地獄道と呼ばれる地獄界には「聖観音」。である。

まあ、その理由は法華経や観音経に書かれている「普門示現」と
呼ばれる観音様の性質からと思われる。
つまりは、衆生の性質や能力に応じて、種々の形体を変えるそうで
観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」を
33の姿に変化するとも書かれているのである。
これが、三十三観音霊場の由来でもあり、京都にある三十三間堂にも
通じうる意味でもあるようだ。しかしながら三十三間堂の由来は
かなり面白いので調べて見るといいだろう。
ちなみにご本尊は千手観音ながら1001体の仏像が
安置されている。

と、六観音のみならず33体の観音様に変化すると言う。
そして、彼らの目的は衆生を救済する事こそが
観音様の仕事なのである。
ここで一つの疑問が生まれる事だろう。
では何故、観音様は特別な力を持ちながら、自らの為に使わず
衆生救済を仕事とするのか。である。
それは①でも説明した通りで、菩薩とは如来を目指して
修行中の身なのである。だからこそ、一人でも多くの衆生を
救済しようとしている訳である。
教師も生徒に教える事で更に学ぶと言う。
人に勉強を教えるのもかなり難しいと言える。
それは、自分以外の人を教化せねばならず、知識や経験や
吸収力もばらばらで、覚える事すらも難しい人もいる。
誰にでも解り易く、そして、着実に智恵を吸収させるのも
一苦労であろうかと。
まあ、だからこその厳しい修行であるとも言える。
そうして、他者が愛を体現出来た時こそが如来への
第一歩であると言えるのであろうかと。

最終章の④に続く。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

菩薩の域②。

二回目の本日は、①で示した通り六仙通の力に関して
まずは解説しておこう。
六仙通とは、まさに仙人が持っている神通力であり
6種類の力を示している。
また、六神通とも言われていて

1.神足通(じんそくつう)
今で言うテレポート能力。
2.天眼通(てんげんつう)
前世のビジョンを見て知る力。
3.天耳通(てんにつう)
遠くの音でも聞き分ける超聴覚。
4.他心通(たしんつう)
他人の心や考えを知る力。
5.宿命通(しゅくめいつう)
過去のできごとを知る力。
6.漏尽通(ろじんつう
煩悩が尽きてもやは生まれる事が無いと悟る智慧。

と言われているが、お釈迦様は漏尽通以外の五通を悟りには
関係がないとして否認したと言う説があるようだ。
そして、その状態になるには、三昧と呼ばれる主に瞑想や
座禅中心の瞑想法から、「観行」と呼ばれる
ヴィパッサナー瞑想へ移行した際に得られる境地であると説く。
ヴィパッサナーとは「物事をあるがままを観る」と言う事で
私の解釈としては、神に帰依全托しあるがままに全てを
受け入れ感謝する事こそが肝要であると思われる。
また、様々な解説でもある通りに
「今という瞬間に完全に注意を集中する」と言う事が共通項で
あるようで、ある種の気づきが必要であるようだ。

つまりは、神と人と自分との会話のようなものであり
インドの聖者は劇に例えて話すのが通例であるようだ。
劇には監督やら役者や大道具さんや小道具さんが居て
劇を成功させようと皆自分の仕事を懸命にしている。
監督は神様であり、役者は自分であると。
つまりは、人生そのものが劇であると言っている訳で
監督の厳しい指導のお陰でいい演技が出来ると言う
具合である、しかし、監督の要求する演技が
どんなものであるかを演者が理解しなければ、いい演技は
出来ないものである。だからこそ、演者は監督の意志を
汲み取る為に懸命に気づくように注意しているのである。
まあ、そんなお話であろうかと。

話はそれたが、修行の果てにそんな能力の開花が
待っていると言う事のようだが、仙人の力を得るのには
それなりの努力と苦労が存在し、そんなに簡単であるなら
世の中には仙人が大勢居る事になるのである。
だからこそ、どんなに厳しい修行をしたとて開花する事は
非常に難しいと言えるのだろうかと。
しかし、日本でも名だたる人物はその兆しがあるようで
数々の文献にもその証拠が残っているようである。
役の行者しかり、空海和尚しかりである。

③に続く。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

菩薩の域①。

最近、観音菩薩に関して調べる事があり菩薩の域と
呼ばれる状態やら感覚とはどのような状態であるのか。
おおよそ知る事が出来たように思う。
まず、始めに菩薩とは。であるが
菩薩とはボーディ・サットヴァの漢訳であり
ボーディは「完全なる英知」の事であり悟りを示す。
サットヴァーは「生きている者」衆生と訳されている。
また、存在している者と言う側面もあり
悟りを開き、存在する者であると解釈する。

しかしながら、それは如来へと進む修行者と言う
側面もあり、人々と共に歩み、教え導く事こそが
菩薩の役目とも言えるようである。
それでは、観音菩薩とはどんな菩薩であるのか
数ある菩薩の中でも、六世界に一人づつおられる観音菩薩。
アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァ。
「観世音菩薩」とか「観自在菩薩」とか様々な呼び名がある。
訳を考えると「あまねく見る事が出来る自在者」となる。
では何を見る事が出来るのか。また、それが何故「音」に
なったのか、これは後に解る事になるのだが
今はまだ触れない事にしよう。

どうも、観音経にはアヴァローキテーが「観」で
シュヴァラが「音」として訳されているようである。
つまりは、発音の取り方と語尾の切り方で訳が変わっている。
と言う事のようである。しかし、音だろうが映像だろうが
それを見たり聞いたりする事が出来る者である事には
変りはないようであり、その答えとしては六仙通の力と
関係があるようである。

次はその辺りの解説をしたいと思う。
②につづく。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

神との対話②。

少し間があいたので、おさらいである。
まずは神との対話①をお読み下さい。

①では神との対話における心構えと、前段階での方法について書いて見た。
クリアーな心。無心である「空」の状態を作り維持する事。
次には灌頂する方法である、つまりは神との親和性について書いて見るとしよう。

一般に灌頂とは、神様との縁を結ぶ行為である。
頭に水を灌ぎ神様との縁を結ぶとある。
まあ、諸説あるが、仏門に入り髪を剃ると残った毛が頭に残る。
それを水で流したのが始まりなんてのもあり、仏門に入る事は
仏との縁を結ぶ事なのと、実用的に見てもそこから来ているのではと
私は思っている。また、キリスト教にも洗礼なんてのがあり
イエス・キリストも洗礼者ヨハネにより、洗礼を受けている。
やはり、同じく頭に水を灌ぐ儀式のようである。

まあ、そこに能力者が介在する場合は少々意味合いが
変わるだろうか。つまりは、聖なる清めの水と言う媒介により
神様との霊線を繋ぐ行為に等しいと思われるからである。
これが、本来の灌頂なのであろうか。
導師が導き、神様との縁が無い方への橋渡し的な感じである。
実際に、法要の時の護摩や祈祷では同じ事が行われている。
儀式や作法に則り、煙や火や水を使い太鼓や鈴を鳴らし
拍手を打ち神様を灌頂する。笛の音や神楽舞なんてのもある。
また、密教には結縁灌頂なんて儀式もあり
神様との結縁を結ぶ、そのものずばりの儀式であるだろうか。

日本で生まれ、昔ながらのしきたりに則って来た家庭では
自然と神様との結縁が結ばれるように出来ている。
お宮参りしかり、七五三しかり、結婚式しかり、法要なども
そうである。神道や仏教ではあやゆる所に神や仏を
見る事が出来るまれな環境なのである。
当然にして、生まれた土地。住まう土地にも神様がいらして
おり、ある種のネットワークが形成されている。
まあ、普通の方には解りずらいのだが、宗教の垣根を越えた
神そのものが存在するのである。
とり分け日本の神様は懐が深く、また非常に寛容である。
何を信じるのも自由であり、だからこそ八百万の全てに神を
見る事が出来る訳である。

そうして、生まれた時からじっくりと時間をかけて神様との
親和性を高めていく。ある種、ご先祖と家族の築いた環境の
お陰であるといって良いだろう。確かにこの話で行くと生まれた
環境で格差が生まれてしまう。これはある意味正しい。
しかし、どんなに生まれた環境が良くとも、後々、本人が努力
しなければ後の霊性は育たないと言うのは一般的な事と同じである。
つまりは、定期的に参拝や山や自然の中に出かけて神様との
会合がなければ霊性は育たない。また、都会の中でも人との
コミニケーションにより、愛情や気くばりなどの配慮を
学ばなければ、愛の本質にたどり着く事すら出来ないだろう。
そうした事を長い間続ける事により、必ず出会いがある。
そう、先達と呼ばれる人達にである。

先達と呼ばれる人達はすでに神との霊線が結ばれていて
多くの人達を神の元へ導く仕事をしている。
まあ、本職とする方も居るが、自分で意識していない方も居る。
神を敬い、参拝を欠かさず、熱心に信仰している。
そんな人と一緒に参拝する事が出来れば、確実に霊線が結ばれ
神様とのご縁が生まれる訳である。
まずは、これが第一歩であるだろう。
また、めったにはないのだが、本職の神職や僧侶の中にも
本当に素晴らしい能力をお持ちの方が居て、そんな方の法要を
受ける事が出来れば当然にして霊線が結ばれ道が開かれる訳である。

もちろん、先達に寄らないで、自ら親和性を高めて霊線が結ばれる
方も居る。こちらも稀ではあるが、神により直接認められた方であり
相当に結びつきが強い、前世をお持ちの方なのであろう。
しかし、同じくこれは第一歩であり、ここからが大変なのである。

③に続きます。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

神と呼吸の関係①。

先日の記事である、「信じるのではなく大事にする。」の続きなのだが
本の著者でもある中村真氏は神社参拝通算一万回であると言う。
現在43歳の方のようだが、神社をライフスタイルと出来たのが30代から
と言う事を考えると、私は一体、何回位神社仏閣を参拝しているのやら。
そして、あらためて計算して見る。
毎日1回を参拝するとして、1年で365回、10年で3650回である。
1万回を実現するには、27年半位はかかるであろうか。
当然にして、実家や近所に神社や寺院がなければ毎日は難しいのだが
鎌倉や京都のように、一日に何軒も掛け持ちできる場合もある。
それでも、1日2件と考えて14年位はかかるであろう。
何とも計算してみると、私は小学生の頃から両親に連れられて
参拝しているが、おそらく1万回は参拝していないであろうか。

まあ、確かに数ではなく、その内容であるのだが神様好きなのには
変わりは無いだろうか。
そんな前降りを書いていないで本題に入るとしよう。
題にある通り。「神と呼吸との関係」である。
丁度、彼の著書に、神様は見えないけど、見えないからと言って
存在するや存在しないではなく、「目に見えないからこそ大事にする」
と言った事から呼吸の仕組みを上げていた。
呼吸は意識していないが、とても人間の生活にとって大切なものであり
意識してみると、何とも精妙な仕組みである事が理解出来る。
口と鼻で呼吸し、肺で血中の酸素と二酸化炭素の交換が行われる。
そして、24時間365日休み無く死ぬまで続くのである。
と紹介されていた。

補足だが、酸素は地球の植物が精製し、出した二酸化炭素はその植物に
吸収される訳である。
インドには実に面白い教えがあり、「ソーハム呼吸法」と言う瞑想法がある。
詳しく知りたい方はぜひググッテ下さい。
簡単に説明すると、「ソー」と長く息を吐き出し、今度は「ハムー」と
長く吸い込む訳である。
意味合い的には「ソー」は自我を吐き出し「ハムー」と神を吸い込む
と言う感じであろうか。人は大量の酸素が脳に供給されると
脳が活発化するようで、活気がみなぎる状態となるようである。
その事からも、全身に多くの気が満ちてくる感覚がある。
もちろん。自我を吐き出し、神を吸い込むと意識すると
その効果は抜群であり、全身に神気に満ちてくる感覚があるのである。
古来より、ヨガの行者や気功の達人に見られる瞑想法なのである。
一般の方でも、普段意識しない呼吸法を実践するといいだろう。
おそらく、しばらく続けると全身をみなぎる気の流れを感じる事と
なり、前身に鳥肌が出る事となるだろう。
それを、自分の意識でお風呂の中ででも出せるようになれば
気功が出来るようになった証である。

まあ、外気功(他者)は出来なくても、内気功(自分)なら
十分に癒す事が出来るので、頭痛や腹痛などは改善出来るように
なり、痛みの緩和も出来るであろう。
尚、注意点としては、都会の雑踏などの騒がしい場所で行うのは
止めて方がいいだろう。あらぬものを引き寄せる事があるのでね。
まずは、自分の部屋の静かな環境で、香などで場を清めた空間で
行うのが理想である。

②に続く。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

エンジョイ。

いつ如何なる時でも楽しむ事。
それこそが、人生の中でもかなり重要な事であり
実は、なかなか出来ない事でもある。
自分の好きな事をしている時なら、誰しも楽しめるだろう。
しかし、自分の意図しない状況や苦難に陥った時に
果たして、楽しむ事が出来るだろうか。
おそらく、これが出来る方はごく一部であろうか。
人には多くの苦しみや悲しみがある。
それを乗り越えるだけでも辛いのに、果たして
楽しむ事が出来るのだろうかと。
答えは、案外と出来るのである。しかしそれには
かなりの経験と準備が必要であるだろう。

山に登るのは未経験者にはかなり辛いものである。
息もあがり、疲労困ぱいで、もう二度と登らないと
思う方も多い事だろう。しかし、何故だかまた
登りたくなる方が多いのも事実である。
その要因は何かと言うと、肉体と精神への苦痛により
脳内麻薬である、ドーパミンやエンドルフィンが
分泌されて、何とも言えぬいい気持ちになるからである。
俗に言うランナーズハイと言うやつである。
そして、苦難を乗り越えた者にしか見る事の出来ない
絶景などは、かなり感動し心を大きく揺らすものである。
そして、あの感動をもう一度となる訳である。

人にはそうした苦痛を和らげる機能が元から存在する
のである。そして、苦しくて辛いからこそ、そんな経験を
踏まえて、多くの視点で物事を見る事が出来るように
なるのも事実である。実際に多くの経験を積む事が
出来るようになるのである。
病気で知る家族のやさしさや有難さ、また、困難な時に
助けてもらう人の温かさなのである。
そうして、多くの愛を経験する事で人は強くなるのである。
強くなるからこそ、今度は自分が守ろうと意識する事となり
人に愛を示す事が出来るようになるのである。
そうして、実践を重ねる事で愛の本質を理解するのである。

だからこそ、私は勧めている。エンジョイ(楽しむ事)と。
どんな状況の時ですらも楽しむ事。それこそが愛を理解する
早道なのである。そうして、随神(かんながら)となり
神と共に歩む事が出来るならば、神の御意向すらも共に
楽しむ事が出来る事だろう。

人は謎が無く平坦な道ほどつまらぬものは無い。
全てを知り、何の障害も無い人生はいささか退屈である。
だからこそ、神はそんな人の為に苦難を与えているに
過ぎず、それを乗り越える事や受け入れる事で
多くの経験が得られる訳である。
だからこそ、何度でも挑み、何度でも失敗すれば良い。
そうして、最後には、常に微笑みをたたえ
全てに感謝する人となるのである。
それこそが、菩薩行であり、菩薩の姿と言えよう。
「人生即ち菩薩行」なのである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

昔より霊性の高い日本人。

私は事あるごとに、日本人はインド人には及ばずとも
素晴らしく霊性が高い民族であると断言している。
本日は、ネットのニュースからそんな一説をご説明したいと思う。
ちなみに、何故インド人に及ばないと言うのかは
その信仰心の由縁であろうか。
彼らは生活の一切合切を神様に捧げている。
つまりは、生活の中心がすでに神様なのである。
なので、お祭りともなれば10日間ぶっ通しなどざらである。
また、世間や自らすらも捨ててしまったサドゥーなどの
修行者も多く、そんな神に仕える方達すらも国民は
あっさりと受け入れてしまう度量もあり、納税や労働の
義務がある日本人では、もはや太刀打ち出来ない。
と言うのが私の見解である。

しかしながら、日本人も決して引けはとらない。
神道や仏教やキリスト教すらも取り込み。独自の進化を遂げ
神道と仏教に至っては神仏習合にて融合すらもしている。
現在は、廃仏毀釈の影響で神道と仏教は分離している。
ネットのニュースでは、戦国時代の真っ只中に日本に渡来し
キリスト教の布教に来た「フランシスコ・ザビエル」の
話が出ていた。彼は日本にキリスト教を布教しにきて
あまりの日本人の霊性の高さに驚いたと言う。
それは、教育もままならない街の人達ですらも
彼が布教時に使っている教えのおかしさに自ずから
気づいてしまう。と言う珍事が連発したそうである。

そんな彼らが、ザビエルに良く尋ねた事があるそうだ。
それは「そんなに素晴らしい教えなら、なぜ今まで日本に
伝わっていないのか。」それと。
「そのありがたい教えを聞いていない自分達の先祖は
今どこでどうしているのか。」との事であった。

その当時のキリスト教は洗礼していない人は地獄行き
だったようなので、その事からも、キリスト教の神様は
なんて無慈悲な神様であり、もし全能と言うなら
自分達のご先祖くらい救ってくれてもいいのではないか。
との事であった。流石にこれにはザビエルも困ったようで
本国に手紙を書いて相談していたそうだ。
その当時の日本人は、鎌倉時代を経て念仏系の仏教が
日本中に浸透している次期でもあった。
つまりは、神仏を信じづとも念仏を唱えるだけで
極楽浄土に行けるという発想である。
そして、ご先祖の供養をするならお施餓鬼のように
地獄にあっても救われると信じれてきた。

そんな方達を騙す事は出来ないであろうかと。
つまりは、神道も仏教も一神教ではなく多神教であり
自然を敬い、また神や仏を信仰し敬えば
自ずから導かれていく事を知っているのである。
そうして、歴史が2千年以上も続いている訳である。
今、多くの人達が日本人の魂に目覚めている。
それに伴うように、伊勢神宮、大神神社、高野山、善光寺などの
神道や仏教に歴史ある土地に行く観光客が激増している。
それはある意味歴史回帰であり、日本人の本来の心を
取り戻している証拠ではないだろうかと。

そして、ぜひ日本人の目を持って今の日本の有様を
見て欲しいものである。そうであるのなら
決して反日的な輩に騙される事はないであろうかと。
そこには、本来日本人には馴染みが無い考え方が
宿っているのだから。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

人知を超えた力②。

本日は、日々起こるであろう事件や事故から
身を守る術を書いてみたいと思う。

まず、人が予想しうる事はたかが知れている。
しかし、ご先祖や守護神からの警告に関しては
その程度の差こそはあるものの、確実に何かを捉えている。
そして、守る側として少しでも危険性を伝えたいと
常に考えているようだ。どうのように伝えると効果的か
など、かなり思考を凝らしてくるようである。
実は私も、なかなかその意志に気づくまでには
時間がかかったのだが、現在はかなりの速さで
理解できるまでに成長したと言えよう。

夢で伝えたり、何かの啓示を与えたりと偶然ではない
必然でる事を強調し、意識に同調してくるようだ。
つまりは、日々の暮らしを注意深く見守っていれば
相当のサインが送られている事に理解出来るだろうか。
まず、私のおすすめの方法としては。
自分自身の守護神を見つける事である。
守り本尊であったり、産土神や氏神様でもよいだろう。
神社や仏閣との参拝を通して、神様との接点を持てば
その接点の濃密さによって、神様の力が作用するだろう。
最低でも月参りは欠かす事が出来ないのだけれども。
そして、お金よりも行動を重視されるのも神様の
特徴であろうか。

次に、自分の先祖供養である。
墓参りはゆうに及ばず、仏壇に手を合わせる事や
ご先祖に対して日々の感謝の祈りと供物は必要であろうか。
ご先祖の好きな好物をお供えすると大変に喜ばれるものである。
また、感謝の念を向けるなら、必ずやご先祖の力の
源となり、より強い力を発揮される事だろう。
こうして、神様とご先祖様の助力が得られていく訳である。

次に、本人の問題の解決である徳の積み方である。
徳とは、貯金のようなものであり、徳を積めば助力が
得られやすいばかりか、自らを守る糧ともなるのである。
これに関しては、よき行い善行を積む以外にない。
布施や参拝や供養など、前の二つと重なるのだが
自分以外の誰かの為に、自らの出来る事をする事こそが
善行に他ならないであろう。そしてポイントは仕事ではない
無私なるものである。
まあ、そんなに難しい事ではなく、誰かの為に祈ればよい。
また、誰かの悩みを聞いてあげればよい。
それこそが、善なる行いといえるだろうから。
つまりは、相手が心から感謝すればよい訳である。
重たい荷物をもってあげるもよし、同じく心の重しも
軽くすればよいのである。

そうして、善行を積むのであればよりいっそう
ご先祖や守護神に御神力が増す事になり
夢で何かを知らせてきたり、予感がしたりと意思疎通が
出来るようになるだろうか。
また、そこまで行かなくとも、神社仏閣で神様に祈り
「どうぞおみくじでお知らせ下さい。」と一心に
お祈りすれば、確実に知らせが出る事だろう。
おみくじは引いたその日から1週間から1ヶ月までの
出来事なので、どんなおみくじが出ても必ず持ち帰り
その時の啓示を思い出す事が重要と言える。

そして、最後は続ける事が肝要である。
まさに、継続は力なりである。

ありがとうございます。
感謝。
和海。

人知を超えた力①。

古来より、日本には八百万の神が御座す(おわす)と言う。
そして今、古来から日本の国土と民を見守っている神様が
動き出している。そんな神々の多くは、荒神であり祟神である。
だからこそ、その怒りを鎮めて頂き、手厚く御祭りする事で
逆に災厄から身を守って頂こうと願った訳である。
とりわけ、牛頭天王と呼ばれる素戔男尊は祟り神の代表格と呼ばれ
疫病をもたらす厄神であると同時に、手厚く祀る者には
守護神として働くとされて多くの神社が創建された。

今回、南朝鮮が疫病でやられ、幸いにも日本では梅雨に入り
疫病の蔓延がしにくい状況なのも、神のご加護であると
言わざるおえないだろうか。
現在、日本の国土では八百万の神々が忙しく働いている。
日本人が本来持つべき資質を発露させる為にである。
なかば強引とも思える方法でもあるのだが
日本人が持つ危機管理意識と結束性を考えるのなら
実に効果的な方法であるだろうと思われる。
当然にして、多くの被害と犠牲者が出る事だろう。
しかしながら、出産と同じく命の危険性はつきもので
新たな何かの誕生にも、相当の危険はついて回るようである。

まあ、具体的には、私のブログでは何度も言っているのだが
その人の遺伝子に影響を及ぼし、本来持っている資質を
正確に再現しているに過ぎず、日本人ならより日本人らしく
外国人ならより外国人らしくなっているに過ぎない。
しかしその影響は、日本の国土のみに影響を及ぼしているに
過ぎない。現在も日本には多くの危機が存在している。
火山の噴火や地震である。しかし、多くの日本人が
古来の資質に目覚め、危機管理意識と結束性を発揮するなら
大変であはあろうが、乗り越えられない天災ではないだろう。
右往左往する事なく、準備と訓練によって未然に防ぐ事。
これこそが日本人である。

地震に関しては多くの家屋はすでに対策済みであり
震度6であろうとも、倒壊する家も無い現在である。
津波に関しても、その危険性を十分に知った事であろう。
また、噴火に関しても少しづつではあるが対策は進んでいる。
そうして、財産は失うも命は守る事が出来るようになった。
それとともに、社会には大きなひずみが生まれている。
連日起こる、親殺しや子殺しがいい例であり
悲惨な事件が起こる度に思う訳である。日本人の犯行だろうかと。
まあ、国籍はあまり関係なく多くの猟奇的な事件の背景には
必ず、何らかしらの影響があるのだろう。
そう。まさに人知を超えた力の存在である。

②ではそんな、日々起こるであろう事件や事故から
身を守る術を書いてみたいと思う。

②に続く。

ありがとございます。
感謝。
和海。

神との対話①。

今日から、新たな課題として「神との対話」と題して
シリーズ物を書いて見たいと思う。
まあ、最近はすっかり時事ネタと嫌韓嫌中のネタと
なっているので、その反省も踏まえて私らしい記事を
書いて見たいと思う。
と言うよりも、何やら上から降りて来たようなので
忘れないうちに文章にしてみようと思っているのである。
なので、どのような関係があるのかは不明であるが
今までの傾向から行くと、特定の方へのメッセージである
場合があるので、共感しない方はスルーされる事をお勧めする。
まあ、時間がある方にはぜひに一読されると少しは
参考になるであろうかと。

題は「神との対話」と壮大な話であるが、何の事は無い。
神との対話はどのように実現されているのか。
その具体的な解説と、対話をしたいと思う方への方法論。
とでも言っておこう。
正直に申して、おそらく普通の方では難しいと思われるので
そこは無理はせずに、じっくりと霊性の修行に励んでもらいたい。
前世や現世で様々な修行をされている方に向けて書いているので
そこはご了承頂きたい訳である。
また、あくまでも私の私見に過ぎず、それが王道と言う訳でも
ないので、しっくり来ないと思われる方もスルーされると
いいであろうか。結局のところ、自ら歩む以外に道は無く
私の通った道が上りやすい山道であるとは言いがたいので
自分の好きな道を通る事をお勧めするのである。
とまあ、前置きはここらへんで本題に入るとしよう。

まず、神との対話をする為には、何が重要かつ必要であるのか。
一番重要であるのは、常にクリアーな心を保つ必要である。
クリアーとは透明と訳されるが、簡単に言えば「空」の状態を
維持する事である。さらっと言っているが、この状態を作るのは
かなり難しいのが現状であるだろう。
では「空」の状態とは、どのようなと来るであろう。
こちらも、簡単に言えば自我を保ちつ無心の状態を維持する事である。
イメージ的には、空のガラス瓶を想像してもらいたい。
そこに神様と言う光る液体を注ぐような感じであると私は感じている。
ガラス瓶の境界が自我であり、透明なガラスの境界だけを
残しつつ、その中身を空にする。そして、そこに神様という光る液体を
注ぎ瓶一杯に満たす。蓋を閉めて神と一体となり輝く。
まあ、こんな感じであろうか。
当然にして、ガラス瓶は限りなく透明でないと、神の光を純粋に通す事が
出来ない訳である。

最初に来る難題は、瓶を空にする事であろうか。
自我の境界を維持しつつ中身を空にする。
これは、瞑想や座禅などを長く行うしかほぼ道が無いと思われる。
人はなかなか無心にはなれない生き物である。
まず、思考を停止させる鍛錬が必要になるだろう。
寝る前に練習して、そのまま寝てしまっても問題はない。
慣れてくると寝る事は無く、平気で何時間でも時間を
忘れてしまう事が出来る。そんな無心の状態を作り出せる事が
出来れば第一段階の成功である。
次は自我領域の境界を作りつつ「空」になる事である。
これは、「空」の状態になれればそんなに難しくはない。
体と言うのはあまり意識しなくても機能するもので
その自らの体をイメージして意識してやれば良い。

しかし、イメージが強すぎると無心にはなれず
弱すぎると神の意識を瓶にいれた時に瓶が壊れてしまう。
なので、硬くて厚い瓶というイメージよりも
人間の皮膚に近い弾力があり、かつ柔軟なイメージを持つ事が
重要であるだろうか。まあ、慣れてくれば
そんなイメージすらもいらないのであるが。
始めはこんな感じでいいだろう。
そして、第二段階の成功である。

もう少し無心の状態を作るヒントを具体的に書くのなら
山に登る事をお勧めする。それか、マラソンや歩く事である。
坦々とした運動は、思考を低下させる効果がある。
座るのが苦手な方は、まずは体を動かし苦痛に耐える精神を
養って見るのがいいだろう。何も考えない無の領域を
手にする事が出来るだろう。遍路修行や雲水さんの修行も
その為とも言えるだろうか。
そして、体力やら集中力も養え、まさに一石二鳥である。
まあ、何か一つの事をコツコツとただ只管に粘り強く
続けると、強靭な集中力と精神力が養え、そこから無心の
領域であるゾーンと言われる領域である「空」に
入る事が出来るであろうか。
そして、最終的には座禅のように座った状態で瞑想し
その領域に入る事が出来るようになれるだろう。
作用と反作用の影響で、動から静へ意向もし易いであろうか。
また、そのまま続けると自然体で何処でも何時でも
「空」の状態に出来るようになるであろう。

最終的には「空」になった状態で体の殻だけを意識して
その器の中に神を灌頂するイメージを持てば完成である。
まあ、おそらくはそのままでは神は灌頂出来ないだろうか。
それは、神との親和性の問題であるからである。
次に神との親和性について書いて見たいと思う。

ありがとうございます。
感謝。
和海。