先日、成田山のご縁日に月参りの参拝に行った時の事である。
いつもなら、すんなりと時間通りに行けるのだが
何とも時間を遅らせられているようである。
いつもなら午後1時からのお護摩に参加するのが
我が家の定番ながら、この時は3時のお護摩となった。
かなり時間も空くので、成田のイオンでもぶらぶらと歩くかと
思いきやそれも駄目なようで、まあ、成田山をゆっくりと
歩きながら参拝すれば良いかと思い巡ってみた。
成田山の大師堂は一般の方も外から参拝する事が出来るの
だが、基本、成田山の僧侶の為の修行の場であるようで
あまり、一般の方が参拝している姿は見えない。
なので、私もお邪魔であろうかとあまり足を向けないでいる。
成田山に着くと必ず行くトイレから見えるので
そこから思いを巡らして参拝しているのである。
今回は時間もあるので、参拝しようと思い行くと
何とも、入壇式と言って成田山に僧として入る儀式を
執り行っていた。そして、その瞬間になるほどと思い
お祈りの最中に探りを入れてみた。
若き僧侶の中に私の過去生と繋がる若者が居たようで
うれしくもあり、またこれからの厳しい修行と
現在の成田山の現実に向き合うのだと思うと
何とも言えない気持ちと共に、こんな言葉が聞こえてきた。
「絶望の先にこそ希望がある。」
すぐにわが師、空海和尚の言葉なのだろうと感じた。
そう、私がうん十年前に感じた、僧侶になろうと決意し
高野山と比叡山に行き、どちらの門が私が入るべき門で
あるのかと、色々と思案していた時の事である。
なまじ神感応が強いと、在籍している僧としての才能が
見えてしまい、結局どちらの門も叩く事が出来ずに帰り
絶望の淵に立ってどうしようかと思案した訳であるが
今はその当時よりも酷くなっていると思われる。
しかし、その絶望があったからこその、今がある訳であり
かつてわが師空海和尚も、僧籍を離れて自らを娑門と
称して修行に明け暮れてた歴史があったように。
私も娑門を名乗っている。なので、勘違いしている方も
多いかもしれないが、私はどこの僧籍には入っていないし
修行者であるとは思っているが、いたって普通の生活をしている。
なので、ブログの紹介にもある通りに職業は僧ではなく
WEB職人であるのです。
不動明王の御神意を理解するには、相当の苦労が必要であり
そこには、確実に絶望が待っている。
しかし、人はその絶望を受け入れ乗り越える事で希望を
見出し前に進むのである。
暗闇を恐れずに受け入れ、気持ちを鎮めて心の声に耳を傾ける
そうする事で、心の中に希望と言う一筋の光が現れる。
それこそが、大日如来の光である。
今度はその光と同化して、己自身を輝かせるのである。
その姿こそが、闇と光を併せ持つ「大日大聖不動明王」の
姿なのである。
ありがとうございます。
感謝。
和海。