ありがとう教。とは?②

最近なぜか「ありがとう教」の事に付いての検索でヒットする事が多いようだ。
興味が出たので調べて見るとグーグル検索で1ページ目にヒットしている。
これで納得である。
おそらく「ありがとう教」に好意を持っていない人が多いのだろう。
しばしその他の投稿に目を通して見ても同じで好意的に捉えていない方が
ほとんどであるようだ。しかしあえて言うが私は好意的に捉えている。
もちろん私は「ありがとう教」と言う宗教や団体には属していないし
そもそもそんな宗教団体は存在し無い。
ブログをお読み頂ければ良いのだが、霊的な事を生業としてはいない。
私の場合は制限が厳しくて生業に出来ないと言う事が正しいようだ。

多くの方が「ありがとう」の連呼に違和感を憶えているようだ。
そして、気持ちのこもっていない言葉がいけないとか気持ちが悪いとか。
そんな論調であるようだ。確かにただ闇雲に連呼してもあまり意味は無い。
そして、人から強制されてとか、あるいは何かの願望をかなえる為に
何て言うのは非常にナンセンスと言える。
しかし、一定の効果がある事は事実であり、その言葉に意味や念を持たせれば
言霊やマントラの如くの効果があるのである。
ちなみに、日蓮上人は「南無妙法蓮華経」を唱える事を勧めた。
法然上人や親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」を勧めている。
わが師の空海和尚も真言宗な訳であり、真言とはマントラ(神の御名)の事である。
つまりは、仏教、とりわけインド伝来の教えにはお経や真言は付き物と言える。
当然、黙々と念仏を唱える訳で、それにより悟りを開いたと言う僧も居たようだ。
長いお経の精髄の言葉を集めて短く唱えても、同じ効果が得られると言う発想は
マニ教(チベット密教)のマニ車にも見て取れる訳で、車を回しただけなのに
何故お経を1回読んだのと同じ効果が得られるとなったのか。
それにはやはりお釈迦様の考えの延長で、教育も文字も読めない人でも
信仰の厚さと熱心さで悟りに至る道があるとお示しになった訳である。
詰まる所、その姿や行動を神様がご覧になられていると言う事になるのだろう。

確かに前者には具体的な神様の御名が示されるが
「ありがとう」言う言葉には主体となる神様が居ないと言う理論もある。
しかし、それは甚だ早急な考えであり、神は大日如来の如くこの世の全てに
遍在するものなので「ありがとう」と言う言葉を口に出すのなら即ち
神に対して述べている事に他ならず、またそれ以外には考えられない訳であるのです。
確かに相対する時に人に対して「ありがとう」を言う事が多いだろう。
しかし、それは主体である人に対してか?はたまた神の分霊体である内在する魂に
対してなのか?これはおそらく両者であろう。
さすれば、人であり神であり「感謝」を述べている事に他ならない。
また、日本人的感覚では食事の前に「いただきます」と言うだろう。
確かに最近では見られないようであるが。
言語に置いてそんな事を言う人種は日本人だけである。
しかし、これには食べ物を与えてくれた神への感謝。そして食物を作ってくれた
生産者の方への感謝と食事を作ってくれた方への感謝が込められている。
「ありがとう」に近い意味だが、食事に対する感謝を込めているのである。
日本人には自然と感謝の心が日常生活の上に置いても息づいている訳である。

ちなみにインドでは「ナマステ」と言う短い言葉の中に
「ありがとう」「おはよう」「こんにちは」「さようなら」「おやすみ」
「いらっしゃいませ」等々、様々な意味がある言葉である。
本来の意味は「ナマス」は帰依や敬礼にあたり、「テ」は貴方にと言う意味である。
つまりは「貴方に帰依します。」となり「貴方の内在神にご挨拶します」と
言う意味になるのだろうか。実に見事に真実を捉えている言葉である。

日本では仏教の流れとその性格から細かく細分化されたのだろう。
しかし、どの言葉にも感謝や信愛の意味が込められている事を忘れてはならない。
とまあ、今までは「ありがとう」の本質を書いた訳だが
おそらくそんな事は「ありがとう教」の方の本を読めば同じような事を
書いているよ!と言うだろうから決定的に違う事を言いたいと思う。

それは、第一にお金の件であろう。金銭の授受や移動がなければ
問題は発生しないだろう。そして第二は性的な件であろう。
とかく問題の起こる人の欲望の二大要素である。
人を騙してお金を巻き上げたり、集まる人を性の対象にしなければ
多くの問題は発生しない。
そして忘れてはならないのは、常に判断し実行するのは自分なのである。
当然、失敗や横道にそれるなんて事もある。
しかし、それすらも自らの経験として強くなれる訳であり学びに他ならない。
大いに否定しそして賛成すれば良いのである。
最終的に決めるのは自分なのだから。
もちろん、心に響かなければ止めれば良く。心に響けば取り入れれば良い。
他人がどうこうでは無く、自分がどうしたいのか?
「ありがとう」と言う言葉を勧めるのも、山のガイドの一つであり
様々なガイドが存在する。また、山の登り口は千差万別であり
どの登り口を選択するかは常に自由なのである。

私は長年「ありがとう」をこの身を持って実践して来た。
確かにこの方法では決してお金持ちにはなれはしない。
しかし、確実に心の平安が訪れる。心の平安は決してお金では買えはしない
それほど貴重なものなのである。そして、心の平安があるからこそ
人に寛容になれ、怒り、悲しみ、蔑み、妬みなどのマイナス要因を
押さえる事が出来、ストレスが緩和する事が出来るだろう。
そして、更なる実践が進めば「帰依全託」の道や「カンナガラ」の領域に
入る事になるだろう。
やるかやらぬかは自分次第です。
そして、知るも知らぬも自らの修行と言えるでしょう。
次にもう少し詳しい理論を書いてみたいと思います。

ありがとう教。とは?③

ありがとうございます。
感謝。
和海。

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